富江神社創祀と月川姓
前々から月川姓の神主は多いと思っていた。「富江町郷土誌」の富江神社の説明の中に、その理由の一端が見えたので紹介する。
〈創祀の由来〉
寿永(1182~1184)の昔、白旗振るわず、平家の一門の栄華が檀ノ浦の水疱と消え、清盛の栄華も誠に槿花一朝の夢であった。その落人の多くは九州に、或いは四国の人里離れた山奥に遁れたが、五島の西数十海里の男女群島に流れ着いた落人の中に、高倉某がいて大和神社の神符を奉載していたと伝えられている。かくて高倉某は、一先ず命拾いした事を喜び、これは大和神社の神の加護を受けたものと深く信じつつ、これを神と祀って、この上の神助けを願って日夕の奉仕を怠らなかった。高倉某の子孫が富江の宮下に住したのは今から約600年前の弘和年間(1381~1384、将軍足利義満)であると推察される。この高倉某は富江神社の先祖といわれ、その子孫が月川と改称してからも累代平氏を名乗っている事を想う時、平氏の落人であることが確実視される。高倉氏の私祭の神が富江五島家の成立によって、その氏神として祀られ事になってから神主は次の通りである。
創祀の由来の次の項に、どこどこの誰々に許可をもらい月川姓を名乗るみたいな事が書かれているので、改称の処に継ぎ足す。
初代:月川 壱岐平貞信
二代:月川 左近平貞栄
三代:月川 右近平貞次
四代:月川 壱岐平貞成
五代:月川 大隅平貞安
六代:月川 丹波平貞敬
七代:月川 元水平貞昌
八代:月川 八百重平貞光
九代:月川 清水平貞俊
十代:月川 日向
十代:月川 八栄
#神主 #月川
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〈創祀の由来〉
寿永(1182~1184)の昔、白旗振るわず、平家の一門の栄華が檀ノ浦の水疱と消え、清盛の栄華も誠に槿花一朝の夢であった。その落人の多くは九州に、或いは四国の人里離れた山奥に遁れたが、五島の西数十海里の男女群島に流れ着いた落人の中に、高倉某がいて大和神社の神符を奉載していたと伝えられている。かくて高倉某は、一先ず命拾いした事を喜び、これは大和神社の神の加護を受けたものと深く信じつつ、これを神と祀って、この上の神助けを願って日夕の奉仕を怠らなかった。高倉某の子孫が富江の宮下に住したのは今から約600年前の弘和年間(1381~1384、将軍足利義満)であると推察される。この高倉某は富江神社の先祖といわれ、その子孫が月川と改称してからも累代平氏を名乗っている事を想う時、平氏の落人であることが確実視される。高倉氏の私祭の神が富江五島家の成立によって、その氏神として祀られ事になってから神主は次の通りである。
創祀の由来の次の項に、どこどこの誰々に許可をもらい月川姓を名乗るみたいな事が書かれているので、改称の処に継ぎ足す。
初代:月川 壱岐平貞信
二代:月川 左近平貞栄
三代:月川 右近平貞次
四代:月川 壱岐平貞成
五代:月川 大隅平貞安
六代:月川 丹波平貞敬
七代:月川 元水平貞昌
八代:月川 八百重平貞光
九代:月川 清水平貞俊
十代:月川 日向
十代:月川 八栄
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