内闇盆地のタブの木
昔から五島は中国との交流の要地であり、人の出入りが激しいため、疱瘡(ほうそう=痘瘡=天然痘)がよく発生し、それを、五島編年史で拾うと膨大なものになる。それで、疱瘡が流行し感染発症すると、福江では、士族の人は現平蔵町の字南河原(なんごら)に、士族以外の人は籠淵町字内闇(うちやみ)に捨てられていた。予防法も治療法もなかった時代である。
今回は、内闇についてのみとりあげることとする。
令和2年7月7日九州全体が、線状降水帯等による豪雨のために川の氾濫や町全体が浸水するなど、甚大な被害が出ている中、ここ五島は幸いにも現時分雨・風共に止んでいる状態です。

ダム堤からの眺め

大雨の後なので、溢れています。

内闇、西来院を望む。手前の広場はゲートボール場?
内闇ダムが出来たのは昭和45(1970)の3月15日でそれまでは、小さな盆地で、その真中に巨きなタブの木が1本あり、その木下に、疱瘡にかかった士族以外の人が担いで行かれ捨てられていた。恐らく、簡単な仮小屋位は作られたであろう。
捨てにゆくと言う言葉は残酷のようであるが、筆者が昭和14年に出征し、北支の山西省に渡った時、そこでも、四畳半位の部屋に6、7人の男女が打ち重なって捨てられていた。全く意識はない。それに猛烈な臭いがして、遠くからでも、その臭ですぐわかるのである。
そのようにして捨てられた人は、助かる人とそうでない人に別れる。その比率は1対5ぐらいではないだろうか。唯、助かった人は自分で這い出して、内闇であったら、先ず、水を飲む。内闇には綺麗な小川が流れていたからである。その水を飲んで元気づいた人は、内闇から水道口と言う小さな里に辿りついて、そこで食物をもらう。これを「一番癒(なお)り」と言った。死んだ人は、あとで、内闇と水道口の間に墓があり、そこに葬られるが、一番癒りをした人は、次にアカノタケと言う里に入り、そこら辺りで、身体を洗うことなど許されて、「二番癒り」と言う。次に、ヒキダと言うところに長く引きとめられて、養生し、もう伝染しないと判断されるとやっと仲間町(福江町の中)に入る事を許される。これを「三番癒り」と言う。恐らく、その間、半年位かかったと思う。
〈福江市史〉より
赤字の字名については下記地図参照

中央のきれいな円は「幕末演武場跡」です。左上辺りに水道口がありますが、内闇からの下り道左手側になる。しかしここには多分昔から里はない。「幕末演武場跡」は上字図では野路河となっているが、場所が変だし福江市史の幕末演舞場の説明では「盛興寺水道口」とあるためここか?上字図では野路河の右上に「寺跡」とあるためここに盛興寺があったのであろう。ヒキダについては演武場跡東側の通称「緑が丘団地」のまだ東側に引田の付く字が2箇所ある。アカノタケについては解らないが、緑が丘団地北側の丘?の土は赤土である。アカノタケがその丘と仮定すると町まで一本の線で繋がる。
内闇と水道口の間にあるとされる墓については見つけることができなかった。誰か知りませんか?
内闇の名前の由来は、伝染病の闇の歴史に因るものか?
疱瘡を患った日本史上の有名人といえば、「独眼竜」の異名で知られる戦国大名の伊達政宗が挙げられる。政宗が右目を失明したのは幼少時にかかった疱瘡が原因で、近代以前の日本では失明の原因の最たるものがこの疱瘡であった。
なお、疱瘡(天然痘)は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した人類に有害な感染症とのこと(2020年現在)。
長々とありがとうございました。
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#五島 #伝染病 #内闇 #痘瘡 #天然痘 #疱瘡 #昔話 #歴史 #墓
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今回は、内闇についてのみとりあげることとする。
令和2年7月7日九州全体が、線状降水帯等による豪雨のために川の氾濫や町全体が浸水するなど、甚大な被害が出ている中、ここ五島は幸いにも現時分雨・風共に止んでいる状態です。

ダム堤からの眺め

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内闇、西来院を望む。手前の広場はゲートボール場?
内闇ダムが出来たのは昭和45(1970)の3月15日でそれまでは、小さな盆地で、その真中に巨きなタブの木が1本あり、その木下に、疱瘡にかかった士族以外の人が担いで行かれ捨てられていた。恐らく、簡単な仮小屋位は作られたであろう。
捨てにゆくと言う言葉は残酷のようであるが、筆者が昭和14年に出征し、北支の山西省に渡った時、そこでも、四畳半位の部屋に6、7人の男女が打ち重なって捨てられていた。全く意識はない。それに猛烈な臭いがして、遠くからでも、その臭ですぐわかるのである。
そのようにして捨てられた人は、助かる人とそうでない人に別れる。その比率は1対5ぐらいではないだろうか。唯、助かった人は自分で這い出して、内闇であったら、先ず、水を飲む。内闇には綺麗な小川が流れていたからである。その水を飲んで元気づいた人は、内闇から水道口と言う小さな里に辿りついて、そこで食物をもらう。これを「一番癒(なお)り」と言った。死んだ人は、あとで、内闇と水道口の間に墓があり、そこに葬られるが、一番癒りをした人は、次にアカノタケと言う里に入り、そこら辺りで、身体を洗うことなど許されて、「二番癒り」と言う。次に、ヒキダと言うところに長く引きとめられて、養生し、もう伝染しないと判断されるとやっと仲間町(福江町の中)に入る事を許される。これを「三番癒り」と言う。恐らく、その間、半年位かかったと思う。
〈福江市史〉より
赤字の字名については下記地図参照

中央のきれいな円は「幕末演武場跡」です。左上辺りに水道口がありますが、内闇からの下り道左手側になる。しかしここには多分昔から里はない。「幕末演武場跡」は上字図では野路河となっているが、場所が変だし福江市史の幕末演舞場の説明では「盛興寺水道口」とあるためここか?上字図では野路河の右上に「寺跡」とあるためここに盛興寺があったのであろう。ヒキダについては演武場跡東側の通称「緑が丘団地」のまだ東側に引田の付く字が2箇所ある。アカノタケについては解らないが、緑が丘団地北側の丘?の土は赤土である。アカノタケがその丘と仮定すると町まで一本の線で繋がる。
内闇と水道口の間にあるとされる墓については見つけることができなかった。誰か知りませんか?
内闇の名前の由来は、伝染病の闇の歴史に因るものか?
疱瘡を患った日本史上の有名人といえば、「独眼竜」の異名で知られる戦国大名の伊達政宗が挙げられる。政宗が右目を失明したのは幼少時にかかった疱瘡が原因で、近代以前の日本では失明の原因の最たるものがこの疱瘡であった。
なお、疱瘡(天然痘)は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した人類に有害な感染症とのこと(2020年現在)。
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