牛瀬・馬瀬(写真追加)
令和4年1月31日、牛瀬・馬瀬を見に行きました。

これです。左の大岩が牛瀬、右の大岩が馬瀬と呼ばれています。何のこっちゃ?

別角度から撮影。砂浜がめっちゃ綺麗じゃ!

写真中央にギリ見えるトンネルは増田トンネル(富江側)です。大体の場所は分かるよね。左の大岩が牛瀬と馬瀬ですよ。

並松(なみまつ:五島便で「なんまつ」)手前に降りる階段があります。

道路横の駐車場にある案内板。
一応文字にします。
「牛瀬・馬瀬
富江藩と福江藩境は牛瀬、馬瀬の中間から大白瀬、小白瀬の中間を見通し黒瀬の平瀬を結んだ線を境とした。これには、面白い言伝えがある。この境を決めるため、両藩からそれぞれ出発し、出会ったところを境界線とすることにした。富江藩は牛に、福江藩は馬に乗って出発した。出会った所がこの二つの瀬であったので、それぞれ牛瀬、馬瀬と名付けたという。富江藩は福江藩から分藩して興ったものであるが、岩の形が牛馬を想像させ、このような言伝えが生まれたのであろうか。現在もここが富江町、福江市の境である。 五島市教育委員会」

道路から牛瀬・馬瀬を撮影。
牛と馬ではえらく富江藩には不利な境界の定め方だったように思えるが、富江の殿様は馬を持っていなかったという説もあるようで……。
〈牛と馬を調べてみた〉
先ずは牛
牛の速さは馬の速さには到底かないませんが、牛が何かに驚いて逃げたり、逆に何かを追いかけたりして本気で走ると、トップスピードは時速24㎞ほどにもなるとか。時速24㎞というと100メートル走なら15秒。それに畑や田んぼで相当頑張ってくれるので、スタミナもありそう。
次に馬
サラブレッドと比べれば、日本の戦国時代の軍馬はまさしくポニーである。小さな体躯に甲冑で身を固めた武者を乗せて走るとなれば、現在の競走馬のような走りは期待できず、全力疾走できる時間と距離も相当短かったと考えるほかなさそうだ。

「五島民俗圖誌」に掲載の五島の馬
当時の馬に一番近い馬体は、木曾駒だそうです。小型で足の太いズングリムックリ型の馬型で、モンゴル馬とも全く異なります。従って最速でも30km/hはやっとで、何キロも走られるとは思えません。日頃TVや映画で見る騎馬シーンとは全く違っていたようです。八代将軍の吉宗は、長身であった為、足が地に着きそうであったとの伝聞もある位です。
在来馬の疾走については、かつてNHKの番組『歴史への招待』で実証実験が行なわれたことがある。体高130cmの馬に45kgの砂袋をくくりつけ、人も騎乗したうえで走らせたところ、分速は空馬(からうま)時のちょうど半分くらいで、走り始めて10分後には、もう限界にきていたという。木曾駒が空馬で最速30km/h、騎乗して半分の速さとなると最速15km/h。
結論?
となると当時の牛と馬は騎乗すると牛が早かったのか?!距離が長いと尚更。

今でもこの境が五島市増田町と富江町田尾の境です。

R4.6.6撮影。上写真が大白瀬、下写真が小白瀬。
#牛瀬 #馬瀬
下の「五島情報」をクリックしてくれると有り難いです。

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これです。左の大岩が牛瀬、右の大岩が馬瀬と呼ばれています。何のこっちゃ?

別角度から撮影。砂浜がめっちゃ綺麗じゃ!

写真中央にギリ見えるトンネルは増田トンネル(富江側)です。大体の場所は分かるよね。左の大岩が牛瀬と馬瀬ですよ。

並松(なみまつ:五島便で「なんまつ」)手前に降りる階段があります。

道路横の駐車場にある案内板。
一応文字にします。
「牛瀬・馬瀬
富江藩と福江藩境は牛瀬、馬瀬の中間から大白瀬、小白瀬の中間を見通し黒瀬の平瀬を結んだ線を境とした。これには、面白い言伝えがある。この境を決めるため、両藩からそれぞれ出発し、出会ったところを境界線とすることにした。富江藩は牛に、福江藩は馬に乗って出発した。出会った所がこの二つの瀬であったので、それぞれ牛瀬、馬瀬と名付けたという。富江藩は福江藩から分藩して興ったものであるが、岩の形が牛馬を想像させ、このような言伝えが生まれたのであろうか。現在もここが富江町、福江市の境である。 五島市教育委員会」

道路から牛瀬・馬瀬を撮影。
牛と馬ではえらく富江藩には不利な境界の定め方だったように思えるが、富江の殿様は馬を持っていなかったという説もあるようで……。
〈牛と馬を調べてみた〉
先ずは牛
牛の速さは馬の速さには到底かないませんが、牛が何かに驚いて逃げたり、逆に何かを追いかけたりして本気で走ると、トップスピードは時速24㎞ほどにもなるとか。時速24㎞というと100メートル走なら15秒。それに畑や田んぼで相当頑張ってくれるので、スタミナもありそう。
次に馬
サラブレッドと比べれば、日本の戦国時代の軍馬はまさしくポニーである。小さな体躯に甲冑で身を固めた武者を乗せて走るとなれば、現在の競走馬のような走りは期待できず、全力疾走できる時間と距離も相当短かったと考えるほかなさそうだ。

「五島民俗圖誌」に掲載の五島の馬
当時の馬に一番近い馬体は、木曾駒だそうです。小型で足の太いズングリムックリ型の馬型で、モンゴル馬とも全く異なります。従って最速でも30km/hはやっとで、何キロも走られるとは思えません。日頃TVや映画で見る騎馬シーンとは全く違っていたようです。八代将軍の吉宗は、長身であった為、足が地に着きそうであったとの伝聞もある位です。
在来馬の疾走については、かつてNHKの番組『歴史への招待』で実証実験が行なわれたことがある。体高130cmの馬に45kgの砂袋をくくりつけ、人も騎乗したうえで走らせたところ、分速は空馬(からうま)時のちょうど半分くらいで、走り始めて10分後には、もう限界にきていたという。木曾駒が空馬で最速30km/h、騎乗して半分の速さとなると最速15km/h。
結論?
となると当時の牛と馬は騎乗すると牛が早かったのか?!距離が長いと尚更。

今でもこの境が五島市増田町と富江町田尾の境です。

R4.6.6撮影。上写真が大白瀬、下写真が小白瀬。
#牛瀬 #馬瀬
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