五島を知りたい!

葛島の沿革と集団移住とその後

2023/01/13
 □奈留町 0

奈留島の北方1.3㎞に位置する葛島(かづらしま)。住所は五島市奈留町船廻。
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【大村領外海からの移住】
 五島藩(福江領)では享保年間(1716~1735年)以降、たびたび暴風や干ばつ、害虫被害による飢饉、疫病などで農民は減り、村が全滅するところさえあったといわれています。当時、五島藩としてはできるだけ農民数を増やして、農産物を増産し税収をあげることが何よりも優先すべきことであったと考えられています。一方大村藩では厳しい人口抑制策がとられており、同時に潜伏キリシタンの追放も課題でした。この両藩の利害が一致し、「千人貰い」という大村藩の農民を1000人五島藩へ農業活性化のために移住させる約束が1796年に結ばれます。この約束による移住者のほとんどは、仏教徒を装った潜伏キリシタンだったといわれています。多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、五島の島々に新天地を求めたのだ。最初の公式移住は1797年、大村領の黒崎村、三重村の農民108人が、五島に送られ、11月28日に福江島の六方(奥浦)の浜に上陸し、平蔵(奥浦)、黒蔵(大浜)、楠原(岐宿)などに住みつきました。以降、公式移住は何度かにわたって計画的にすすめられたようです。当初「五島へ五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも。五島へ五島へと皆行きたがる。五島はいなかの襟を見る。」と謡われましたが、移住した先はほとんどが山間僻地のやせ地や、漁業にも不便な海辺でした。その移住先での過酷な生活により、「五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽来て(行って)みて地獄。五島は極楽行てみりゃ地獄。二度と行くまい五島のしま。」と俗謡が変化していくのでした。

 移住した人達に開拓地が与えられたことを知ると、外海地方から五島への移住者は続々と増え、その数は五島藩からの1000人の申し入れに対して、最終的に3000人以上に達したとされます。また、その後、五島だけでなく、九十九島の1つの黒島や、比較的禁教の取り締まりが緩やかだった佐賀藩領の伊王島や神の島などにも潜伏キリシタンの移住がありました。

 葛島へは、西彼(杵)半島の樫山から、長吉、正吉、北平の3人が移ってきた。後にここから岩造が赤崎に移った。
 これら島の開拓者たちは、※「赤子殺し」をしなくても良いことと、キリシタンの詮索があまり厳しくないことのみを頼りに、この孤島に移り住み、漁と山の斜面の開墾により生命と信仰を守ってきたわけである。




【赤子殺し(=子殺し=子返し)】とは
 子殺し(こごろし)は、親が子を殺すことである。ヒトの場合、自分の子を殺すことに限定して使われることが多い 。
 日本では、平安時代の『今昔物語集』に既に堕胎に関する記載が見られるが、堕胎と「間引き」即ち「赤子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。
 当時、妊娠前に育児を調整する手段や知識が乏しかったので、妊娠または分娩の後に間引くのが普通だった。妊娠中の手段としては、腹をもんだり、ほおずきの根を差し入れて流産を促す(掻爬)手段があり、しばしば母体が危険に晒された。分娩後の間引きとしては、膝やふとんで窒息させる方法、石臼で圧殺する方法、濡らした紙を顔にはって窒息させる方法などがよく行われた。多くの場合、取り上げ婆(明治に免許制になる前の産婆)により行われた。

【葛島に話を戻す】
 幕末維新期のキリシタン弾圧「五島崩れ」では、五島一帯でもキリスト教の迫害が始まる。奈留においてはあまり活発に行われなかったが、葛島においては迫害が伝わる。明治2年に12戸の戸主が奈留の役所に呼び出され、うち3人が拷問を受けた。こういった弾圧は欧米諸国に伝わり、非難を浴びた新政府はついに1873年(明治6年)、市中に掲げていたキリスト教禁制の高札を撤去した。
 明治32年、信徒たちが上五島の飯ノ瀬戸(いいのせど)から瓦葺の家を買ってきて、開島以来の悲願であった信仰の殿堂である民家風の聖堂を建設開始、翌年明治33年完成。神父が毎月2回ほど巡回するようになる。昭和26年、ルース台風により破壊されたが同29年再建。大正2年には船廻尋常小学校葛島分教場が設置された。住民は沿岸漁業に従事し、最盛期(昭和30年代初頭)には300人近くが居住し、昭和43年念願であった電気が開通。奈留島との間には、町営船の葛島丸が1日2往復運行していたが、次第に日本の高度経済成長の波に洗われ、島を離れる者が多くなり、遂に昭和48年3月26日、過疎集落再編成事業により23戸120人が町内樫木山地区に建設された住宅に集団移転し無住となる。約200年間続いた島の生活に終止符を打ち、葛島から祈りの声が消えた。
 無人島となったあと、酪農業者が入り和牛の放牧を始めたが撤退し、そのあとに残された牛が繁殖し、日本では珍しく野生化した牛が見られるようになっている。また、この島は奈留町のカトリック発祥の地です。奈留島といえば、2018年に世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつである江上天主堂が有名だが、奈留町で最初にできた教会は、葛島の教会であることはあまり知られていない。

 2015年5月に上陸した方の情報によると、「当地は現在も船着場が残存し、小型船程度で上陸が可能。ただし防波堤の内側に作られた海沿いの道路も、波による浸蝕で若干の崩壊が見られる。集落内は学校や教会が置かれていた海沿いが開けて明るいものの、住宅が集まっていた山腹は草本や灌木の藪になっている。南部では屋敷跡を数箇所と段々になった農地跡、中部・北部でも複数の屋敷跡や農地跡、そして墓地が見られた。なお島内のやや高い位置を一周する車道もあったようで、現在でもその痕跡を見ることができる。
 地元で伺った話では、ほとんどが葛島(くずしま)家であったとのこと。墓地で見られた姓も、確認できるものではすべて葛島であった。」とのことです。実際に人が住んでいた痕跡を見に行こうと思います。


現在の葛島の様子。美味しそうな和牛さん達には近づかないように!野生なんで!
#葛島 #潜伏キリシタン #和牛
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